海元寺閻魔堂
潮音山義弘院海元寺は、浄土宗鎮西派に属し、本山は知恩院です。開山上人は、岌山徳行で、黒田長政公の入国のおり、松原小崎より、現在の地、博多石堂口に移されたといわれます。海元寺にある閻魔さまは、江戸時代の延宝8年(1680年)には石堂口から松原の方に入って左手にあった自性院という寺に祀られていましたが、縁あって海元寺の山内に移転して、現在にいたっています。
閻魔さまの由来は、黒田光之公の宰臣鎌田九郎兵衛の槍持であった源七(出家名:円心)という者が、上方のとある辻堂で閻魔さまの木像の首の部分を、筑前に持ちかえって、これを安置するために自性院を建てたのが始まりといわれます。

 

海元寺観音堂
海元寺には、西国三十三所観世音菩薩がお祀りされています。
西国三十三所とは、日本で最初に成立した巡礼で、四国八十八箇所と同じように、近畿一円に分布する三十三の観音霊場寺院をめぐるものです。
今よりも交通が不便な江戸時代、西国三十三所の霊場を回るのは非常に大変な事です。西国三十三所の観世音を模写し、一度お参りすることで、西国三十三所の観音霊場をお参りしたのと同じ功徳を受けられるように作られたのが、海元寺の三十三観音菩薩です。

 

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西国三十三所とは
日本で最初に成立した巡礼で、近畿一円に分布する33の観音霊場寺院をめぐるものです。奈良時代に徳道上人が創始し、平安時代に花山法皇(968~1008)が復興したといわれています。中世以降は一般庶民にも広まり、江戸時代にはお伊勢参りと並んで多くの人々が巡礼の旅に出ました。現在においても多くの人々が札所寺院を訪れています。

 

海元寺三十三観世音菩薩の由来
竪町(現在の中呉服町)の住人「弥三次」と云う人が、観世音菩薩を深く信念し、西国三十三所の観世音を模写して、安置しようと発願した。当時の海元寺住職がその志に感銘し、寛永元年(1624)海元寺境内地に御堂を建立、仏像を安置した。(海元寺観世音由来記より)
閻魔とこんにゃく
閻魔さまのお祭りは1月・8月の16日に行われますが、この時には参詣者がこんにゃくを備えます。十王図を見ると、三途の川のそばにはお婆さんがいますが、この「奪衣婆」(衣を奪うお婆さん)にこんにゃくを供えるため、といわれます。こんにゃくは、腹の中の砂を取る働きがあるといわれますが、ついでに「下のやまい」まで取って欲しい、という願いを込めて供えます。
このお婆さんも、根はやさしいので、お供えの功徳によって、皆の願いを聞き入れてくれます。子供の病気をなおしたり、母乳の出をよくしたり、下のやまいをとりのぞいたりしますが、こちらがあまり欲深くなって、地獄へ舞い戻らないようにしたいですね。
子育て地蔵
あまり知られていませんが、海元寺には古くから伝わる子育てのお地蔵さんがいらっしゃいます。名前を「山田地蔵尊」。親しみを込めて「山田のお地蔵さん」と呼ばれています。

 

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海元寺では8月16日と1月16日の年2回、えんま祭りを行っております。この日は地獄の釜が開く日、つまり地獄もお休みの日として、私達も地獄の様子を見させて頂ける日です。えんま祭りの日には、三途の川のほとりにいらっしゃる「奪衣婆(だつえば)」に「こんにゃく」をお供えします。「奪衣婆」は三途の川を渡ってくる亡くなった方の衣服を剥ぎ取るお婆さんの姿をした鬼です。「奪衣婆」はその剥ぎ取った服を、側の木の枝にかけます。その枝のしなり具合によってその人が生前に犯した罪の重さが分かると言われています。
このように亡くなった方の衣服でも何でも取ってしまう「奪衣婆」に灰汁(あく)で固めて作る「こんにゃく」をお供えして、自分の病気の悪を取ってもらう、そういった理由から「奪衣婆」にこんにゃくをお供えするのです。古くから、特に子供の病気を治したり、母乳の出を良くしたり、下のやまいに効くと言われています。実は慈悲深い方で、博多では「こんにゃく婆さん」として古くから親しまれています。えんま祭りの日には樽一杯のこんにゃくがお供えされます。是非えんま祭りにお参りの際にはこんにゃくを持ってお参り下さいませ。

 

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  • 〒812-0035
    福岡県福岡市博多区中呉服町10−5
    TEL:092-291-4520
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    -交通案内-
    地下鉄 呉服町4番出口より徒歩6分
    西鉄バス 蓮池バス亭より徒歩3分
    西鉄バス 呉服町バス亭より徒歩5分

    -橋のたもと-
    海元寺の側、石堂橋には博多の童画家、西島伊三雄氏の書かれた海元寺の閻魔様が彫刻されています。ぜひ実物をご覧にいらして下さい。
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